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“読書ノート”優秀作〔美月チューター推薦〕・・・関篤子さん(通教部)の町田康『告白』

5/16締切の、チューター24名が一冊ずつ推薦した課題図書への“読書ノート”は、59名から提出がありました。2015年春期の62編以来、5年10期ぶりに50の大台を超えたのです。
こういうコロナ状況のなかで、いつもにもまして、「読書ノート」に取り組んでくれた文校生が多かったことをとてもうれしく思います。
それぞれのチューターによる、「読書ノート」に対する“評”は、事務局に届きつつあります。一斉にお返ししますので、もうしばらく待ってください。

◆美月麻希チューターから、ぜひとも“文校ブログ”で紹介してほしい、と連絡のあった「読書ノート」がありました。『学習の手引き』に載っている美月チューターの“図書紹介”文とともに、優秀作に推された“読書ノート”を以下に掲載します。  (小原)

◎町田康『告白』について〈美月麻希〉
明治二十六年に起きた「河内十人斬り」といわれる殺人事件をモチーフにした作品。大阪出身の町田康はパンク歌手~俳優~詩人を経て小説家になった。文体が持つ独特のリズムはその経歴と切り離せない。『告白』の世界観で文学に対する考え方を「こんなにも自由でいいのだ」と一変させられた。縄文時代から持っていたに違いないDNAが刺激され快感を呼び覚ます。たぶん安易な翻訳をゆるさない。そして真似しようとしたら大やけどする、そんな危うさが魅力を倍増させる。この作品についてブログに書いているので参考にしてください。https://ameblo.jp/mtk611/entry-12358827894.html

◎読書ノート  町田 康 『告白』 
        関 篤子(新潟県魚沼市/通教部・塚田クラス)
城戸熊太郎の長い独白の中に沈む込むようにして、六七六ページを読み終えた。この本を開く前、NHKのラジオ番組で高橋源一郎が「文学は実学だ」という話をしていて、そのことをずっと考えながらこの本を読んだ。読後一週間が過ぎたが、私は、熊太郎のことを考えるたびに苦しくてしょうがない。
道楽者、博打打ちと言われる熊太郎だが、心の中はいつもまじめで優しい、ちっともひねくれてなんかいない。世間を恨んでいるわけでもない。ただ、「何かしっくりこない」、「自分はホントはこんな風じゃない」とつぶやき続けている熊太郎は、いつもいつも心の中と外がつながらない。死ぬ間際も自分の心と話し続ける熊太郎だが、「やっぱり全部嘘でした」と言って死んでいった。救いがない。熊太郎は、「あかんかった」と言って、人を十人も殺して、自分も死んだが、どうすれば、熊太郎は死なずに済んだのだろう。この本の帯には、「人はなぜ人を殺すのか」と書いてあった。そのことを六七六ページも使って考え続けることで、「どうしたら人を殺さずに済むか」の答えが見つかったのだろうか。
熊太郎の生きづらさの底には、自分の心の中のつぶやきが世間に伝わらないというもどかしさ、イライラがあったと思う。そんな熊太郎の三七年間の人生の中で何回か内と外がつながる瞬間があった。その時熊太郎の心を外へ引っ張り出してくれる人がいたらよかったのにと思う。しかし、熊太郎にはツールが無い。博打と女遊びしかない熊太郎を生かす術がない。確かに、熊太郎は正直だ、優しい、考える。しかし、それを伝えるすべがない。弥五郎だけは熊太郎を慕ってくれた。それは、弥五郎もやはり同じ生きづらさを持っていて、熊太郎以外に弥五郎を受け止めてくれた人間がいなかったからだ。そしてその弥五郎も、熊太郎を生かす術を知らなかった。熊太郎が命を懸けて手に入れた縫。縫も熊太郎を愛したのだと思う。しかし、結婚した後も博打と女遊びしかしない熊太郎を生かすことは縫にもできなかった。どうすれば熊太郎は生き続けられたのだろうか。
この小説を読みながら、私はいつも「音楽が聞こえるな」と思っていた。作者の経歴とか、モチーフとなっている河内音頭などのイメージがあるせいだとは思うけれど、独特の文体、スピード、リズムなどに「ああ、音楽が流れているな」と思いながら、その音楽にひたりながら読んでいた。もし、熊太郎が心の叫びを音楽にして外に吐き出すことが出来ていたら、それが誰かの心に届き、そのことが熊太郎を救う力になっていたかもしれない。祭りの夜、盆踊りの輪の中で陶酔したように踊る熊太郎。言葉ではない何か別の力で自分を外に発散できたらよかったのに。暴力ではなく・・・。
物語の最後、熊太郎の魂が河内音頭の狂熱の中を漂っていた。私は、本物の河内音頭を聞いたことが無いので、残虐な殺人鬼の話が、百年以上も歌い継がれていると言うこと自体不思議な気がする。たぶんそこには人々が共感する何か、あるいは、人々が踊り狂い、そして、忘我の境地へ導かれていく不思議な力があるのかもしれない。作者は、その不思議な力を音楽ではなくて文章で表出したかったのだろうか。熊太郎も、自分が生きている内に、その術を見つけられたらよかったのに。そうであれば、私はこんなに重苦しい気持ちのままでいなくても済むのにと思う。
縫と寅吉も気になる存在だ。何にも執着しない縫。自由な縫。そこに熊太郎は強く惹かれたのだろう。縫のことをもっと知りたいと思った。寅吉と密通しながら淡々と熊太郎と暮らす縫。何の感情も表に出さない。だが、死の間際、「寅ちゃん助けて」と言った縫。その一言を最後に縫は死んだ。とても可憐な、生きた縫の姿が見えた瞬間だった。
そして、熊太郎とよく似た寅吉、でも、熊太郎と違って道は外しても転落はしない。偶然かもしれないが、寅吉は生き残った。なぜ寅吉は生き延びたのだろう。熊太郎と違って寅吉は内も外も見えていて、どちらとも上手にコミュニケーションがとれる人なのだろう。熊太郎の事も熊次郎の事も冷静に眺め、理解し、上手に付き合っている。そして、縫の心の隙間にもするりと入り込んでしまっている。そうでなければ生きてはいけないとは思いたくないけれど、寅吉のことを考えると妙にほっとする自分がいる。
ああ、だから、熊太郎にも自己表現のツールを持たせてみたかった。
そして、私も、人を熱狂させるそのエネルギーのことを、もう少し考えてみようと思った。