在校生の作品

エッセイ「無限鍋」

田山野恵
〔通教部本科/エッセイ・ノンフィクションクラス〕

もう三月である。昨日、やっとこの冬で何回目かの「無限鍋」が終わった。そう、我が家の冬の名物無限鍋である。四月までにまだ間があるし、もしかするとそれまでにもう一度くらいはまた無限鍋が出現するかもしれない。
「無限鍋」とは、まるで老舗の鰻のたれのように、何度でも何度でも継ぎ足し増やし続けて、決して枯れない鍋のことだ。もはや、我が家の冬はこれがないと越せない。元々無限鍋は、私の実家で「白菜鍋」と呼ばれている鍋物だった。母が良く作っていた冬の晩ごはんの定番で、白菜をメインに、鶏ひき肉の団子にキノコ、人参などを入れて、最後にシーチキン缶と葛切りをのせて、コンソメキューブと酒で味を付けたシンプルな鍋である。具材にはこれ以外のものを入れてもいいのだが、忘れてはならないのはもちろん白菜、シーチキン、そしてコンソメキューブだ。これさえ入っていれば、少々バラエティに富んでいても、我が家では「白菜鍋」と呼ぶ。
 さて、「無限鍋」である。この「白菜鍋」からの派生で、私のパートナーが生みの親である。彼は白菜が好きらしい。いや、むしろ「白菜鍋」によって、白菜のおいしさに気が付いたのかもしれない。我が家では買い物に行くのは専らこのパートナー氏だ。近所にお気に入りの八百屋があり、特価品はこの店で「チャンス」と呼ばれている。冬のある日「チャンス」商品であった白菜を彼は買った。白菜を大量に消費するためには「白菜鍋」が持ってこいである。とにかくガンガン白菜を切って鍋に投入。ぐったりと柔らかくなった白菜が白菜鍋の醍醐味だ。こうして、我が家の大きな土鍋にたっぷりの白菜鍋ができる。たった二人しかいない家なのに、大家族用の鍋にあふれんばかりの白菜。これを最低一週間は食べ続けることになる。後半戦に入ると正直なところ、私はだんだんうんざりしてくる。ごめん、「白菜鍋」。大好きだけど、やっぱり一週間同じものはきつい。この間、お味噌汁はお預けである。たった二人しかいないのに、いつもはそれこそ学生寮のまかない飯かというくらい、一度に何人前ものお味噌汁を作る。しかし、鍋がある間、お味噌汁はお預けだ。今年の冬は、本当に数えるほどしかお味噌汁を作らなかった。何故なら、常に鍋があるからだ。
 ここに、「無限鍋」の秘密がある。一週間以上も同じ鍋を食べ続け、ようやくあと少し、今夜家に帰って食べきれば、この鍋から卒業できる、そう思っていた。朝、出かける前に鍋を確認した時にはもう、それほど残っていなかったからだ。だから、仕事を終えて帰宅し、「よし、これで鍋も最後だ」と思って鍋の蓋を開けたとき、私は一体何を見ただろう。そう、そこには、山盛りの白菜と、鍋からあふれそうに波打っているスープがあったのだ。鍋はすっかり増えていた。増えていた、というレベルではない。まるで、あふれ出る泉、魔法の鍋のようじゃあないか。朝、出かける前には残りわずかだったのに、帰宅したらすっかり元通り、いっぱいになっている。
 パートナー氏である。残りわずかになった鍋に、大量の白菜を投入し、水をジャブジャブと注ぎこんで、そのまま仕事に行ったのだ。これは善意である。私が帰宅したらすぐに食べられるように、すっかり鍋を準備したのである。とは言え、白菜は切って入れてあるだけだから、まだ煮えていない。火をつけて、白菜が柔らかくなったころに味を見てみると、味がしない。コンソメキューブをどのくらい入れたら良いのかわからなかったらしいパートナー氏は、水と白菜だけ入れたようだ。酒とコンソメで味を調える。シーチキンを入れる。こうして、増えた鍋をまた、一週間以上食べ続ける。これを、この冬何回繰り返しただろう。もはや、このラリーが何周目なのかわからない。さすがに、そのまま食べ続けるのは危ないかもしれないと思い、幾度か鍋の底をさらうこともあった。私は「無限鍋」を終わらせようと、鍋を洗ってコンロに乾かしておく。乾いたら鍋をしまおうと思っていると、白菜を買ってきたパートナー氏が、「白菜鍋」を作り始める。とにかく切った白菜をこれでもか、というくらい鍋に入れる。シーチキン缶を入れることと、お酒を入れることは覚えたようだ。しかし、コンソメの分量は未だに決めきれないらしく、だいぶ薄味に仕上がっていることが多い。いずれにしても、この冬は家に帰ると常に「白菜鍋」が待っていた。こうなると、もはや、「無限鍋」である。いつ終わるともしれない。もう、三月も終わりだ。去年の十二月からずっと、この「無限鍋」ラリーを繰り返し続けているのだ。ああ、そろそろあたたかくなってきたじゃないか。白菜の季節も、間もなく終わりだ。きっともうすぐ「無限鍋」から解放される。春よ来い、早く来い。また、次の冬が来るまで、さらば「無限鍋」。さらば、土鍋。また会う日まで。
 この文章を書いてしばらくして、ついに「無限鍋」が終わり、土鍋を洗うことができた。私は鍋を箱に入れて、戸棚にしまった。さあ、これで冬も終わりだ。それから数日後、私が家に帰ると、しまったはずの土鍋がコンロに乗っている。不安な気持ちで鍋の蓋を開けると、そこには山盛りの白菜が……。
 多くの学校では、もう卒業式も終わった。でも、我が家の「無限鍋」卒業までにはまだしばらくかかりそうだ。かくして私は昨日も、今日も、明日も「無限鍋」を食べ続ける。今年の桜は例年より開花が遅れているらしい。春よ来い、早く来い。

《『樹林』2024年7月号(通教部作品集)より再掲》

作品寸評

「無限鍋」とは、東京に住む作者の造語らしい。一読、抱腹絶倒とはこのことか、と思った。精読するにつれ、会話も、表情も、動作も描いていないのに、白菜主体の「無限鍋」をこよなく愛する「パートナー氏」の人物像が徐々に浮き上がってきた。うまいものを食べたい、身体にいいものを食べたい、といった食にまつわる世間の価値観はどこ吹く風である。生き方や日常生活も、周りの目を気にすることなく飄々としているに違いない。ちょっと真似できそうになく、憧れてしまう。
 アドバイスとしては、もっと推敲をかさねてほしい。――時の流れは読者に伝わっているか。同じような内容を繰り返していないか。もっとありきたりではない表現はないか、など。
(小原政幸)