在校生の作品
掌編小説「十月」
九月の焼けつくような暑さがようやく収まり、外は雨が降っているようだ。朝の四時はまだ暗く、肌寒い。パソコンに向かおうと、道子はカーディガンを探した。昨日は隣町のイベント、軽トラ市への久しぶりの出店だった。売り上げを早めに整理しておこうと思うのだが、まだ少し気分が高ぶって、なかなか数字に集中することが出来ない。
今回は、念願のキッチンカーの準備がようやく整い、少し緊張して車をイベント会場へ運び、割り当ての場所に止めた。ブルーベリー色の、小さいクラシカルな形のキッチンカー。アイスクリームののぼり旗をセットし、ジャムとスコーンを並べ、コーヒーの準備もできた。車内の自分の動き、お客さんの目線などを考えながら一つ一つの物の置き場所を微調整する。雲一つない秋晴れの中、少しずつ人の数が増えていく。道子は出来上がった小さい車のお店を眺め、それからカウンターの奥に座ってお客を待った。
「わっ、かわいい車」
と、女の子二人がキッチンカーの前にやってきた。
「へー、スコーンだ。おいしそう。アイスクリームもあるね。アイスクリームにしようっか」
第一号のお客さんは、アイスクリームの注文だった。道子はこの日のために何回もアイスクリームの盛り付け方を研究してきた。紙のカップを用意して、アイスクリームをディッシャーでダブルで掬い取り、ブルーベリーソースをかけ、ウエハースとミントを飾り、最後にちょっとこだわって木のスプーンをそえれば完成。
「おお、豪華じゃん。映えるね」
などと言いながら女の子たちは食べるより先にアイスクリームにスマホを向けている。やっぱりキッチンカーの宣伝効果はあるらしい。その後も、車の前にアイスクリーム待ちのお客さんの行列ができていた。このキッチンカーがないときにはありえない光景だった。道子は、車の外の人の数に圧倒されながら、必死でアイスクリームを掬い続けた。
ようやく行列がなくなり、ほっと一息ついて車の外に目をやると、道路の向こう側を夫の雄二にそっくりの男が歩いている。しかも女連れだ。まさか彼は去年の十月、
「ちょっと出かけてくる」
と言って、小さなリュックを背負って出て行ったきり帰ってこない。『こんなところに、女と一緒に』と思って道子は目を凝らした。しかし、やはりちがう。こんなところにいるはずがない。
一年前、雄二がいなくなって何日かは、子供たちや親戚中に連絡してさがしてみたけれど、さっぱり行方がつかめず、ついに警察に行方不明者届を出して探してもらうことにした。警察ではいろいろ聞かれた。行き先や動機などは全く心当たりがない。しいて言えば、最近ちょっと物忘れが進んだかというくらいだろうか。
一か月たっても二か月たっても雄二は帰ってこなかった。何の連絡もない重苦しい気分で新年を迎えた。そして元旦の朝、雄二から年賀状が届いた。
「あけましておめでとう。俺は元気だ心配するな」
と書かれていた。なんだって、心配するなだと、冗談じゃない。道子は腰が抜けそうになった。七十歳になろうとする爺さんが、一人でフラッと出かけて行方知れずになるなんて、心配してくださいと言ってるんでしょうがと返したいが、差出人の住所は当然書いていなかった。とりあえず生きているらしい。そして、雄二がいなくなった後、彼の持ち物をいろいろ調べてみると、財布と通帳と印鑑は持って行ったようだった。ということは、二か月に一回年金が入るわけだから日本国内で暮らす分には何とかなっているのかもしれない。スマホからは一度も返信はなかったが、道子のことは忘れていなかったらしい。
日がな一日テレビを相手にため息をついていた雄二のどこにそんなエネルギーが潜んでいたのだろう。道子にとってはそのことの方が驚きだった。そして、もしかして認知症? という不安も頭をよぎったが、そういえば、いつか道子が、彼の幼馴染の千絵ちゃんがアラスカへオーロラを見に行ったという話をしたことがあった。その時、雄二は珍しく興味を示していた。
「へえー、千絵ちゃんアラスカへ行ったんか」
「へえー、そうか。アラスカへか。一人で行ったんかな」
などとぶつぶつ言っていたが、道子は、
「アラスカは寒いしね」
と言って聞き流していたのだったが、雄二は千絵ちゃんの行動力に触発されてしまったのかしらと、年賀状を見てすっかり力が抜けてしまった道子は思った。それにしても、雄二の最近のボケ具合はかなり心配になっていたのだが、こんな計画を実行する気力があったとは、と変に感心してしまう道子であった。
正月も終わり、雄二がいなくなって三か月も過ぎた頃、道子はだんだん腹立たしくなってきた。私だってもう六十五歳、いつまでもいなくなった夫の心配をして落ち込んでるのはもったいないと思った。雄二との暮らしは、静かで、落ち着いた日々が淡々と過ぎていたのだが、雄二がいなくなって、ある日、道子は自分を縛るものが何もなくなったことに気づいた。
「私だってしたいことをしよう」
これまでも道子はテレビの前の雄二を尻目にあちこちを飛び回っていた。十分したいことをしてきたのだが、いよいよ今度は後ろから追ってくる目もなくなってしまったのだ。
「そうね、お互いに好きなことをしましょうね。自分の力でできる範囲でね」
と雄二に返信したいと道子は思った。
怒りは力を生む。それからの道子は、かねてからの夢だったキッチンカーを手に入れるために奔走した。子供たちや友人たちは、
「その年で?」
「大変だよ。やめておきな」
とみんなが止めたけれど、道子はきかなかった。車を選ぶのも、メニューを決めて保健所に手続きするのも全部ひとりでやった。
そして九月、道子の誕生日にそのキッチンカーが届いた。名前を決め、名刺も用意したのだ。車体に、
「MammysCafe」
と大きく書かれたブルーベリー色のキッチンカー。鍵を手渡され、車に乗り込んだ道子は大きく深呼吸をした。
「さて、始めようか」
それからの道子は、雄二のことを考えている暇もなかった。夜、一人でビールを飲むとき、背筋のあたりがうすら寒く、心細さが頭をよぎるのだが、疲れが道子をすぐに眠りへと引き込んでいく。
まだ薄暗い朝の静かな時間、一人でパソコンに向かっていると、軽トラ市で雄二に似た男の姿を見かけたときの動揺がよみがえってくる。道子は意識のどこかで雄二の姿を探している自分に気が付いて落ち着かない。いやいやそんなことを考えている暇はない。一人になった今、雄二に頼っていた分を自分で稼ぎださなくてはと道子は自分を奮い立たせていた。
十月二十日は雄二の七十歳の誕生日である。古希を迎えた男が、出奔したまま帰ってこない。道子はふっとため息をついた。四十年も一緒に暮らした相手だから、どこでどうなってもいいとは思わないけれど、心配のしようがないではないか。道子はやはり腹立たしいのである。いっそほかの女のもとへでも走ってくれた方があきらめもつくかもしれない。いや、それとも、今まで我慢していた分、どこかで思いっきり羽を伸ばしているのだろうか。そうであってほしい。そんなことを思っていると、玄関の戸が開く音がした。近所に住む息子が様子を見に来たのかしらと思ったら、雄二がのっそりそこに立っていた。
「今帰った」
《『樹林』2024年12月号(通教部作品集)より再掲》
作品寸評
楽しく読んだ。1ページ目を読むだけで経験者が書いた作品だとわかる。
主人公がキッチンカーでアイスクリームを売っている時、家出した夫「雄二」にそっくりな男を見かける。「ちょっと出かけてくる」と言って、小さなリュックを背負って出て行ったきり帰ってこない七十歳の「雄二」。この男はふしぎな魅力をもっている。作品の最後で「雄二」は帰ってくるのだが、読者の多くは「これからどうなるのか?」という思いで読み終えたにちがいない。ここから新しい物語が始まるという印象なのだ。
深刻になりそうなテーマを軽妙に描いて好感が持てる作品だが、もっと掘り下げるべきものがあって、それを描ききったらとても読みごたえのある作品になるだろう。
(高橋達矢)